手術トレーニング用品の代名詞として
「KOTOBUKI」を世界共通語にするために
KOTOBUKI Medicalは、腹腔鏡手術トレーニングボックスを始め、人体組織の特徴を精巧に再現したコンニャク由来の模擬臓器・VTTによって知名度を伸ばしているまだ若いベンチャー企業だ。40年以上続く町工場、寿技研から手術トレーニング用品部門が独立する形で2018年に法人化した。
「寿という漢字一文字に、我々は祝宴、長命、健康などのポジティブなイメージを瞬時に見出す。しかし、世界の人々はどうだろう?」 法人化準備の際には、「寿」を完全に捨て、世界に打って出るため英語社名にする案も上がったが、すったもんだの末あえて「寿=KOTOBUKI」を残すことを選んだ。世界の人々になじみのない「KOTOBUKI」という言葉を、自社製品を通じ世界共通語にすればいいという、逆転の発想だ。
KOTOBUKI Medicalは、社長・高山成一郎の亡き父であり、寿技研創業者の高山駿寿にちなんだ社名を受け継ぎ、世界中の医師、医療従事者、そして患者が安心して手術に臨むことができる未来の為に、これからも進歩に努めていく。
「NINTENDO(=ゲーム)」「Nikon(=カメラ)」「Kawasaki(=バイク)」のように、「KOTOBUKI(=手術トレーニング用品)」が世界共通語になる日を目指して。
町工場の集積地「八潮」で培ったものづくり魂
若き日の高山駿寿
KOTOBUKI Medical、そして寿技研の源流は、戦前に遡る。現社長である高山成一郎の祖父が昭和初期に東京・足立で興した小さな町工場だ。
幼少時代、叔父が継いだその工場へ三輪車に乗って通っていた高山。工場の片隅は恰好の遊び場で、休みなく駆動する様々な機械と、忙しく立ち働く叔父、そして父の姿を見て育った。高山が小学校高学年になった時、父が独立を決断。工場の名は父の名前にちなみ、寿技研とした。東京・足立からほど近い埼玉・八潮に工場兼自宅を構え、文字通りものづくりと隣り合わせの生活が始まった。
その後高山も、自然と家業をアルバイトとして手伝うようになった。得た賃金で趣味のバンド活動の為の機材を買っては自分で改造する中で、自然とものづくりの技術が磨かれていく。物心ついてからずっとものづくりが身近にあったことから、父の工場を継ぐことに違和感は無かったが、自分の代で更に良い工場にしたいという若者らしい野心が胸にあった。
かつての寿技研
もともと八潮は、国内有数の工業都市と言われ、昔から製造業を営む事業所も多いことで知られていて、当時は三ちゃん企業と呼ばれる家族経営の小さな工場がひしめき合っていた
「工場を継ぐなら学歴はいらない。」父から何度か告げられていた事だったが、「現場で働くみんなとただ同じことをしているだけでは社を大きく出来ない」と駿寿を説得し、専門的な設計や先進的なものづくりを学ぶため、室蘭工業大学機械工学科に進んだのだった。
ラジコンタイヤ
1988年、高山が20歳の時、寿技研の売り上げの大半を占めていたミニ四駆タイヤの仕事がピークを迎えていた。パートを雇い、父は昼夜問わずミニ四駆タイヤの製造に励んでいた。作っても作っても追いつかない程の注文の量だったのだ。一方、高山はいずれ寿技研の経営者になるための布石として卒業後の進路に大会社への就職も候補として考えていたが、その矢先、元々大病を抱えていたのにも関わらず不眠不休で働き詰めだった父が倒れてしまった。
それを知った高山は、寿技研の存続を第一に考え八潮に帰る決断をした。「悲観的な気持ちは何ひとつなかった。たった2年間であったが大学生活で得られたネットワークや知識は将来に繋がると自負していた。」現に大学の友人との関係は切れるどころか強い絆で繋がっていると高山は言う。
学生時代の仲間と高山成一郎
八潮に戻ってくるのと同時期、ミニ四駆ブームが終わりを迎えようとしていたある日、高山が父から手渡されたのが営業課長の名刺だった。「またの名を“幻の名刺”」と高山は言う。「大学を中退した20歳の若造が持つには憚られる思いだった。ほとんど人に渡せなかった。(笑)」生粋の職人だった父は、営業が得意な人ではなかった。名刺には、そう遠くない将来、寿技研の未来と社員、そしてその家族を背負って立つことになる息子への感謝と期待が込められていたのかも知れない。
ミニ四駆ブームが完全に終わりを告げ、寿技研の売り上げは1/10に減少。ミニ四駆ブームで得た資金の余韻がありすぐに会社が傾く事は無かったが、このままでは先がないことは明白で、若い高山が必死に仕事を取ってくる日々が続いた。そんな中、資金集めで忘れもしない経験をする。会社に入り半年も経たない高山が父に命じられ一人で銀行へ出向き融資を申し込むことになったのだ。その時の経験について「当時は父のそんな態度をとても理不尽に感じていた。経験のない20歳の若造に何やらせているんだよと。だけど今考えれば、自分がなんとかしてこの会社の存続のために借りたお金は返さないといけない、という責任感を植え付けられた。経営者(という社会的責任のある立場)になる為には効果絶大だった。」
初めてながらも資金調達に成功し、仕事をかき集めた結果、少しずつ会社は安定し、同時に取引先に「寿さんのところに頼めば何でも解決してくれる」という評判も広がり色々な相談が舞い込むようになっていた。
社屋全焼とリーマンショック。
2大ピンチをチャンスに変え見えた世界
1999年3月、ミニ四駆ブームが再度到来し、そしてまた去ろうという時、新たな事業の準備として、機械の移設や壁を取り払う内装の工事を進めていた。不幸なことに、工事のさなか溶接の火の粉が壁から屋根裏に回り込み、瞬く間に燃え広がった。とっさに消火器を手に取り必死に火を消そうとするも、自分達の力ではどうする事もできず消防車を呼んだが時すでに遅く、目の前で社屋が燃え上がるのを最後まで見ていることしかできなかった。
隣で愕然としている父。意外にも冷静だった高山は、今やらねばいけない事は何か、来週納品しなければいけない仕事はどこの外注にお願いしようか?という事に意識がいっていた。「ある意味現実逃避だったのかもしれない(笑)」と高山は笑った。
社屋が全焼した所で、会社は終わらないし終わらせない。これまで経験したいくつもの困難のおかげで、火が沈下した後の工場の残骸を前に「よーし、やってやるぞ」という決心に満ちていた事は今でも忘れていない。高山が31歳の時の出来事だった。
その後は八潮の仲間にも助けられながら数か月後には新たな社屋も完成し、頼まれた仕事はしっかりこなす『取引先に従順な』寿技研として順調な日々が続く。そして2005年、高山は寿技研の社長に就任した。
全焼から9年後の2008年、リーマンショックが勃発。寿技研の売上も急落した。高山はこれまで言われるがまま、文句も言わず誠心誠意対応してきた客先に出向き、「何とか発注をお願い出来ないか」と頼むも、厳しい状況は客先も変わらず、下請けに構っている暇は無いと言わんばかりに断り続けられていた。この時ばかりは高山も打ちのめされていた。
「これまで様々な困難を乗り越えてきたが、これまでの成功のステップは全く通用しないと感じた。だから今までのやり方を一度リセットしようと考え、この時に自社製品、自社のブランドで勝負したいと本気で考えた。新たなスタートが切れるのなら、自分が努力し足りなければもっと頑張る、そんなサイクルで仕事をやりたいと考えていた。」
その後、レジャー、バイオテクノロジー、建築など、自社製品の可能性を探るために様々なチャレンジを繰り返すも、まったく目途が経たないまま3年が経過しようとしていた。あと1年で廃業という最悪の可能性もちらついていた。
GYNラパロトレーニングBOX(上)/ラパロトレーニングバインダー(下)
そんな矢先、大手医療機器メーカーに勤める友人から、医療現場での困りごとを聞く機会を得る。聞けば、腹腔鏡手術用のトレーニング環境がまだまだ足りないという。必要とされている腹腔鏡トレーニング用のボックスは、寿技研が今まで培ってきた技術を動員すれば、十分に実現可能だと確信。すぐに医療現場の最前線にいる外科医から丹念に話を聞き、ニーズを形にしていった。時にはまだ掘り起こされていないニーズを刺激する為、自ら製品企画を外科医に持ちかけたりと夢中になっていく内に、「廃業前の最後のあがき」として書き上げた経営計画書の売上数字に、現実がぴたりと沿うようになっていた。
腹腔鏡トレーニングボックスの売れ行きは上々で、学会やセミナーでの採用実績も積み上げていったが、これに加えて、腹腔鏡トレーニングに使える消耗品があれば、更に事業が成長するのではと高山は考えた。根を詰めてアイディアを探していたところ、「食中毒が原因でレバ刺しが禁止され、代替品として生レバーの風味と外観に似せて作られたコンニャクが提供されている」というニュースを耳にした。その時高山は、「…コンニャクで手術トレーニング用の、まるで本物のような模擬臓器が作れないだろうか」と唐突に新製品の着想を得たのだった。
縫えるコンニャクというコンセプトで開発を始めた(左)、力を加えた時に筋が伸びてちぎれていく組織の表現にもこだわった(右)
左から川平教授、弊社代表高山、東京医科歯科大中村教授
その後、自治医大シミュレーションセンター長の川平教授や、東京医科歯科大学生体材料工学研究所の中村教授の協力を仰ぎ、4年の歳月と1000通り以上の試作を経て、2017年、ついに模擬臓器の製品化に成功。柔らかさや強度、そしてある特定の箇所に一定の力をかけると自然と裂けていく、といった人体組織の特徴を再現したコンニャク由来の模擬臓器は、“どんな形も色も再現出来るトレーニング用の組織”という意味でVTT(Versatile Training Tissue)と名付けられた。
「これまで、ただただ技術にこだわり、客先から言われるがまま仕事をクリアする事で何かに辿り着くと思っていた。お客様が医療やれと言えば医療もやるし、レジャー産業やれと言えばレジャー産業もやる、建築をやれと言えば建築もやる。しかしその結果として、自社の強みや特色が育っていなかった。
経営計画書を経てて良かったのは、自社の目指すべき形を描き記す事で見失わないで済んだこと。1年経った時には振り返り、継続して目標を留められる。そういう事が最も大事なんだと40歳過ぎてからだけど気づけて良かった。
自社製品・自社ブランドを起こすという事は、ものを作るだけではだめ、売って当たったらラッキーじゃなくて、それをどういう形で誰に届けたいかとか、どう育てていきたいかという事をしっかりイメージし目標を取り組まないといけないのだと思います。」
自社製品として手術トレーニング用品の成功を確信。
ついに法人化
下請けからの脱却を果たし、自社製品で勝負したいと思いを抱く経営者は数多くいるが、その道は険しい。
高山は、自社製品として手術トレーニング用品部門を立ち上げたことを振り返り、「何とか軌道に乗った大きな要因は運と、自分が大切にしてきた人とのつながり」と話す。つながりの妙だろう、まずインキュベーターとして数々の有名企業の成長を成功させた杉浦が経営陣として加わった。次に、大手医療機器メーカーで長年営業として活躍した梅本を取締役兼営業部長として迎えることとなった。そして2018年、ついに手術トレーニング用品部門を法人化させる運びとなる。「寿=KOTOBUKI」の名を受け継いだ新生企業、KOTOBUKI Medicalの設立を目前に、父・駿寿は他界。生前息子に語ることはなかったが、手術トレーニング用品事業の成長を大変喜んでいたと、周囲の人の言により後から高山は知ることとなった。
2019年6月、日本初の株式型クラウドファンディングサービス「FUNDINNO(ファンディーノ)」での資金調達に挑戦。VTTを事業計画の中心に据えたプレゼンテーションが耳目を集め、結果わずか数分で最低目標の2500万をクリア、26時間で日本最高記録9000万の資金調達額を達成した。(後にキャンセルが出て8930万円)。投資した株主の数は600人近くを数えた。
FUNDINNOで9000万の資⾦調達額を達成
2020年には人体組織の特徴を見事再現したVTTのポテンシャルを大いに買われ、世界最大手の医療機器メーカーとの契約を次々と実現。腹腔鏡トレーニングボックス、そしてコンニャク由来の模擬臓器・VTTを携え、「手術トレーニング用品といえばKOTOBUKI」と世界中で通用する未来を目指し、高山、そしてKOTOBUKI Medicalの挑戦は続く。